不登校をした当事者が伝えたいこと
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イラスト作家Ruiです
いつも温かい応援いただき誠にありがとうございます!!
今回はいきなり本題からスタートしたいと思います
※長文ですm(__)m
私が経験した不登校についてお話します
最近テレビの報道などで、不登校の話がでると、胸が痛いです
私の体験談が少しでも何か役に立てれば幸いです
なにより、不登校で苦しんでいるかたが、自分一人じゃないと思っていただけたらと思います
私が不登校になったのは高校3年生の時
高校1、2年生の時も、体が弱くて学校を休みがちで、ハードな授業に勉強についていくのが大変でした
それでもなんとか進級はできました
しかし、高校3年生の時不登校になりました
教師によるいじめといえる言動が原因です
高校3年生になると進路指導が入ります
私の担任は進路指導担当の先生でした
実は私は小さい頃から医者志望でした
幼少の頃持病の喘息で、夜間急患センターによくつれていってもらいました
その時に、夜にもかかわらず一生懸命治療してくださる医師の姿に、自分も将来体の弱い方々を救う医者になりたいと思うようになりました
そのため、小学校は塾にかよい、中高は進学校に進みました
進路指導の時に先生から「どこの大学に行きたいんだ?」と質問されました
私は迷うことなく「医学部です」そう答えました
その途端、先生は険しい顔になり、どなりました
「お前が医学部?!成績悪くて、体も弱くて学校欠席がち、なによりこの前の模擬試験もE判定やったやないか!!お前が医学部なんて
いけるわけないやろ!!あきらめろ!!!」
教師からの言葉に、私はその時自分の夢をあきらめてなんていません
「先生、それでも私は医学部に行きたいんです!小さい頃からの夢だったんです!」
そう声を大にして答えましたが、「だからあきらめろって言ってるだろうが!!」
全否定でした
それ以降、私が先生からどんなに言われても、医学部をあきらめないものだから、毎日のように、担任は私を廊下に呼び出して、声をあらげて言いました
「何度言ったらわかるんや!!無理なものは無理!!お前に医学部は無理なんだよ!!」
それに対し、私は思わず泣きながら叫びました
「私は医学部にいきたいんです!」
すると教師は、「もういい!!」と言い放ち、このやりとりはクラスメイトには勿論、他のクラスにも響くぐらいでした
ついに教師は母親を学校に呼び出しました
「お母さんから言ってあげてください、医学部は無理だと」
しかし母は「あの子が医学部に行きたいんだったら、私はそれを応援するだけです」と答えてくれたそうです
すると、教師はあきれた笑いを伴いながら、はきすてるようにこう言ったそうです
「子供も子供なら、親も親やな」
それ以降も、母はわたしのせいで、何度も学校によびだされたそうです
私は、教師からの夢を壊す言動にノイローゼになり、ついに朝、学校に行きたくないと言うようになり、休む日もながくなり、要するに不登校の始まりでした
不登校中は何をしていたか
ただ布団をかぶって泣いていました
「明日なんてこないで!!学校に行けばいじめられる、先生からまた責められる!!もう無理!!」
勉強もはかどるわけなんてありません
大好きなばあちゃんにも助けをもとめることもありました
でも、それがばあちゃんに心配をかけてしまい、体の弱いばあちゃんの負担になってしまいました
母は不登校とわかっていても、やはり今日は学校に行ってくれるかもしれないとお弁当を作ってくれました
しかし私は「弁当なんていらない!!学校にいきたくない!!!」と泣き叫び、母とケンカすることも多かったです
母がいつも学校に休む連絡を、朝いれてくれたのですが、事務の方から電話の切り際にこういわれたそうです
「すみません、今日も体調不良で休ませてください」
「わかりました、・・・またか!(電話を切る)」
家庭内では、父親が一番不登校に理解がありませんでした
私がいつものように「学校休む!行きたくない!!」と泣き叫ぶと、父親が部屋にきて、「なんで学校いかんのや!!」と怒鳴り、ドアを蹴り飛ばしてきました
正直そのとき恐怖しかなかったですし、なによりどうし理解してくれないんよと、辛かったです
ただ私は不登校の時に、もし、出席日数が足りなくなって、留年したら、また1年こんなことを繰り返すのかと思うと辛すぎて、泣きながら、足をひきずりながら、遅刻しながら、学校に行ったこともありました
不登校ながらも頑張って学校にいっても、教師もクラスメイトも無視です
むしろ、教師からクラスメイトがいる中でこういわれました
「えー、このクラスの中に、出席日数が足りなくなっている生徒がいますけど、まぁ言わなくてもわかりますよね」
お前のことやぞと言わんばかりに棒読みしていわれました
「よく頑張って学校にきてくれたな」なんていう優しい言葉はありませんでした
そのことも辛かったですが、頑張って学校に行った時に受けたある授業でのできごとが、一番今も辛く記憶に残っています
それは、化学の授業のときのこと
どこの大学にいきたいか、白紙にかけというものでした
私は不登校ではあったものの、それでも医学部はあきらめていませんでした
「医学部にいきたいです、浪人する覚悟です」そう書きました
そして教室にいた生徒が書いた紙を回収し、翌日の授業のときにそれは起こりました
化学の先生が壇上にあがるなり、怒りに満ち溢れた声でこういいました
「授業を始める前に・・・昨日書いてもらった紙、読ませてもらった。その中に、こんなことを書いたやつがいた。いいか、その紙読むぞ。『医学部に行きたいです、浪人する覚悟です』。これを読んだ時ものすごく腹が立った!!浪人する覚悟?!そんなことを言っていいんは頭の良い奴だけや!!!成績の悪い奴が言うな!!!!!」
私はもう言葉でませんでした
自分が書いた紙を読み上げられ、そしてクラス全員の前で怒鳴られ、もう泣くしかありませんでした
涙が机の上に沢山こぼれ落ちるのを止めることができませんでした
くやしいやら情けないやら・・・
色んな感情でいっぱいでした
クラスメイトも、私が学校を休みがちで、成績も悪く、先生から何度も呼び出され怒られている姿を目撃してるため、どこか距離を置かれていました
教科書を忘れて、隣の成績優秀だった生徒に、「ごめん、教科書忘れて、見せてくれないかな」とお願いすると、ものすごーーーーく嫌そうな顔され、ため息つかれながら見せてくれました
授業中、先生から当てられることもなく、授業中はいても居なくても同じ、空気みたいな存在でした
正直、もうこのころになると、家にも学校にも居場所なんてない
死にたい、死んで楽になりたい、自分なんて生まれてこなければよかった・・・
そう思うようになっていました
そして、いつのまにか私自身、どんなに医学部無理とか言われても、自分の夢をあきらめていなかったのに、気が付けば「自分は医学部無理」というようになっていました
それから冬になり、卒業試験がありました
30点以上だったら合格、それ未満だったら追試というものです
私は数学だけ、追試になりました
そして追試を受けました
追試を受けたあと、また学校を休みました
そんな休んでいるときに、母に1本の電話がかかってきました
数学担当の先生からでした
「おたくの娘さん、追試受けたのに、結果を聞きにきていませんが!!追試を受けた子はみんな、結果を聞きにきましたよ!!おたくのむすめさんだけですよ、結果聞きに来ていないのは!!!」
開口一番怒鳴り声
母は、「先生すみません、娘は喘息で休んでいまして」と謝罪すると、「そんなこと知りません!!!!」と大声でどなり、電話をきられました
その時、私は母かたの祖母の家にいました
そして、母から祖母の家に電話がきて、それを聞き、私はもうどうしたらいいかわかりませんでした
泣きながら次の日学校に行き、数学担当の教師のところにいきました
「先生、昨日はすみませんでした」と謝りましたが、それをさえぎるように一言「不合格です」と冷たい目で見られながら告げられ、追追試の日程だけ言われ、先生は去っていきました
私はとにかく追追試を合格しなければと勉強しますが、やはり合格はできませんでした
そして数学の先生に職員室に呼び出されました
「不合格です」と言われ「この意味わかってる?不合格ってことは卒業できないんですよ、あなた!」
怒鳴りつける数学教師の近くに、クラスの担任が座っていました
そして、イスに座りながらこちらに移動し、のぞきこむようにテストの点数をみて、「ふ~ん」と頭を数回縦にふり、また自分の机に戻りました
担任の行動にも、傷つきました
数学の教師の言葉にも、胸をえぐられ、涙がずっとながれました
数学の先生はそのあと続けるようにこう言ってきました
「まぁ、首の皮一枚つなげてあげてもいいけど、この課題してきたら合格にしてあげてもいいよ」と、課題が書かれた紙を渡されました
それは、提出期限は翌日
とても今日中には終わり切れない量の課題でした
お前には絶対できやんやろ?と言わんばかりの顔
私は、わかりました、ありがとうございますとそれだけ言って、職員室をあとにしました
帰宅後、私の話を聴き、姉が課題を手伝ってくれました
そして、深夜にようやく課題をやり終えることができました
姉も自分のやらなければならないこともあったのに、私が卒業できるようにと、睡眠時間を割いて手伝ってくれたこと、今でも感謝の気持ちでいっぱいです
そして翌日、課題を提出にいくと、まさかできるとは思わなかったのか、教師は課題をうけとるなり、「合格です」とだけいって終わりました
私は不登校で出席日数ギリギリでしたが、学校の規則の出席日数は満たしていたため、卒業できました
卒業式の日
体育館で卒業式を行い、そのあと教室にもどり、一人ひとり担任から卒業証書をわたされました
教室には沢山の親御さんがいました
私は名前をよばれ、しぶしぶ証書をもらいにいくと、足を滑らせ思わず転倒しかけました
すると担任は「大丈夫か?!」と笑顔で手を差し伸べてきました
このクラスには先生の言動をみている親たちがいっぱいいる
パフォーマンスをとられたことに私は心の中で憤りでいっぱいでした
進路指導以降あれほど私に対して怒鳴り散らし、無視をしていたのに・・・
それからセンター試験がありました
私は現役で受けるセンター試験に正直自信とかありませんでした
この1年、不登校で勉強もおろそかにしていた自分
センター試験とはどんなものか、ある意味記念受験のように受けに行きました
みんな制服を着ていました
わたしは私服で受験しにいきました
もうあんな学校の制服二度と着たくない、ただそれだけで
会場にいくと、担任が立っていました
「頑張れよ!」「緊張しても大丈夫や!」
クラスの生徒に笑顔で手を振って、大きい声で応援している担任
私はその前を通りたくなかったけれど、行く道筋だったので通らなければいけませんでした
そして案の定、担任と目があいました
向こうも私だときがつきました
すると・・・
声を出すのをやめ、ふんっと首を後ろにまわしたり、下をむいたり、視線を合わないようにし、ぶらぶら体を動かしていました
私も頭を下にむけ、その前を通りました
そのとき、私の後ろにクラスメイトがいました
すると、担任は私の後ろをのぞきこむようにしてみて、「試験、頑張れよ!」「応援してるぞ!」とまた再び笑顔で生徒に声をかけていました
声をかけられた生徒は「ありがとうございます!」「頑張ります!」と笑顔でした
卒業式のときのあれはホンマにパフォーマンスだったんだねと、確信し、そして、最後の最後まで、やはり私はあなたにとって問題児、目の上のたん瘤だったんだ・・・
私は最後の最後までされた担任の仕打ちに、会場とはいえ涙をながさずにはいられませんでした
結果、私の現役でのセンター試験は、医学部にはとどかない点数で終わりました
私は卒業後、明るかった性格が変わってしまいました
具体的に言うと
・人の顔色をうかがいながら話すようになったこと
・人の評価をとてつもなく気にするようになったこと
・自分はダメな人間という自信喪失
・自己嫌悪を抱くようになった
・自分は生きている価値なんてない
10年以上たつ今、良いほうに改善されてきましたが、今でも高校生の時の夢をみます、そしてうなされます
学校の前をとおるたびに、今でも気分が悪くなります
学校の生徒を見ても、あの時の辛かったことが蘇ります
私はこれからも、このトラウマのようなものと付き合っていかなければいけません
あのとき、進路指導の時、担任が「今の時点では医学部は難しい、でもあきらめたらあかんよ、一緒に合格できるように勉強がんばろう!」と応援してくれていたら、どんなに心救われただろうか
不登校にもならず、学校生活を送れていたと私は思います
不登校で辛い想いをされているあなたへ
私も不登校で辛い想いをしてきました
ここまでご覧いただいたあなただったらきっとわかっていただけると思います
でも、不登校の時の辛いことが、これからの人生ずっと続くわけじゃないです
私はこの不登校の高校生活の中で、教師から文系にも理系の大学にも行けないといわれました
浪人は3回しましたが、医学部も残念ながら行けませんでしたが、でも理系の大学に合格し、そこで遅れながらの青春時代を満喫し、卒業の時には学部長賞もいただけるほど、勉強楽しいと思えるほどに成長していました
もし学校の先生から希望をもぎ取られても、人格否定されても、夢を壊されても、それらを吹っ飛ばすような将来が待っています
今は不登校について、支援してくださる方、団体があります
自分はだめとか思わないでください、人に頼って良いんです
不登校が悪いわけではないです
悩みを理解してくれないかたも多いですが、理解してくれるかたもいます
辛い中一生懸命生きているだけでもすごいことなんです
不登校で人生は終わりじゃない
あなたはだいじょうぶだよ
この長い内容を最後までご覧いただき誠にありがとうございますm(__)m
私が伝えたかったのは、私も不登校で苦しかったことがあるから、あなた1人じゃないよということ、不登校を経験してもそれで人生が終わりじゃない、希望をもってほしいということです
今回書かせていただいた話が、ご覧いただいたかたの何か少しでもお役に立てると幸いです
それでは